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ニュースのはざまの子どもたち 私は、2003年2月16日から2月25日まで、「第二次イラク国際市民調査団」に参加し,戦争直前のイラクの人々と交流をしてきました。 現在、マスコミによって、米英軍による爆撃状況や戦況予測は詳細に論じられますが、それに比して、爆弾の下にいるはずの子どもたちの姿があまりに少ないように思います。
私が、つい、先日、現地で、英語とアラビア語で悪戦苦闘しながら話をした子どもたち、一緒に絵を描き字を教えあった子どもたち、喉や腰が痛くなるまで一緒に歌い踊った子どもたち、リクエストで写真を撮りまくった子どもたち、白血病と必死でたたかいながら将来の夢を語ってくれた子どもたち・・・ あの子どもたちは無事だろうか。何とか空爆をしのいで、再会するまで無事でいてほしい。アメリカの野蛮に追随するだけの国の民であることを、恥じながら、わびながら、毎日胸が痛くなる思いでニュースを見ています。 路地裏にひしめく子どもたち イラクは、子どもの多い国です。全人口2400万人のうち半数の1200万人が15歳以下の子どもたちです。特に、バクダットの子どもたちは300万人くらいはいるのではないかと言われています。名古屋市の全人口分ですよ! 子どもの多さは、訪問中にも本当に実感していました。顔かたちの違う私たちは、どこに行っても子どもたちから取り囲まれました。興味津々の子どもたちは私たちに寄ってきては、「中国人、日本人?」「どこへ行くの?」「何しにきたの?」などと聞き、「写真とって。」というのです。そして、最初は4、5人程度だったのが、いつの間にか、10人、20人と増えてくるのでした。 それに、イラクの子どもたちはサッカー好きです。あちこちの小さな空き地で、10人からの子どもがサッカーに興じています。 それで、今、私は、ある悲劇的な想像をしてしまうのです。 はじける笑顔の子どもたち イラクに行って一番驚いたことは、子どもが底抜けに明るく、どこに行ってもはじけるような笑顔を見せてくれたことです。政府の公式交流ルートで外国人慣れしている子どもたちはもちろん、スーク(市場)でも、学校でも、街角でも、あの魅力的な大きな黒い瞳を輝かせて、子どもたちがワンサカ寄ってくるのでした。 イラクの子どもたちのかわいらしさを、何と表現したらいいのか!(16、7歳くらいになると少年たちは何だかサダム・フセイン氏みたいな人相になっていって、イマイチかわいらしさに欠けるのですが。)マイス小学校の4人娘たちは無事だろうか。「トイレ探索おばさん」の私を大笑いして寄ってきたあなたたち。記念写真におさまったあなたたちのはじける笑顔は、今、遠く離れた名古屋の人たちの心をつかみました。そして、「トイレおばさん」は、プリントされた写真を、あなたたち4人に届けたいと無性に思ってるんだけど。 国連本部へのデモの時知り会った少年。ダバコ売りを手伝っていて、学校にはあまり行けてないみたいだったけど、サッカーが大好きで、日本の選手の名前もよく知っていました。かえって、私は「ナカタ」くらいしか知らなくて・・・。 日本びいきだったイラクの少年、青年たち イラクの青少年たちは,たいへんな日本びいきです。欧米各国のように中東に直接的危害を加えた歴史がないこと,戦後の焼け跡から立ち上がって工業発展を遂げたこと,唯一の被爆国であることなどがその理由です。 イラク国内には、日本企業が建築した、病院、学校、橋梁、高速道路、上下水道がたくさんありました。「ヤーバン(日本人)はいいものを作る。」という評価も定着しているようでした。大河であるチグリス川やユーフラテス川には,立派な大きな橋が架かっています。バスで一緒になった青年から、「マリコ,この橋は日本の会社が 作ったものだよ,知ってる?」なんてうれしそうに聞かされて、私も心躍る気持ちになったものです。 建造物だけではありません。イラクの町中を走っている車の多くがトヨタとニッサン。それも、マニアが見たら卒倒して喜びそうな年代物。私が「トヨタの隣町から来た。」と言ったら、「オオー、トヨタか。ベリーグッド。」と人垣ができました。 また、イラクの少年、青年たちは、実によく日本のアニメを知っていました。ポケットモンスター、ドラエモン、その他いくつかの少年向けアニメ。イラクの人たちにとって、日本は「平和を愛する、科学技術の発展した、模範とすべき国」なのに、日本はそんなイラクの人たちを殺そうとしているのです。耐え難い思いです。 「この子たちが何をしたというの!」〜理不尽な死 劣化ウラン弾、をご存じと思います。核廃棄物すなわち「核のゴミ」で作った核爆弾です。貫通破壊力が強いために、対戦車砲として、湾岸戦争で初めて米軍が大量に使いました。 核廃棄物の処理に苦しむ先進国にとっては,核のゴミ処理もできるわけですから,人類としての良心さえ踏み越えれば,一石二鳥のありがたい兵器です。しかし,その結果は暗澹たるものです。爆弾として破裂して放射能が空中に飛散し,土壌も汚染する。その結果、湾岸戦争から12年経ったというのに、今なお、イラクの子ども病院は,白血病を中心とした悪性腫瘍の子どもたちであふれかえっています。公式統計としては、湾岸戦争前に比べて4、5倍の発病率ということですが、被害の深刻な南部では、10倍以上の発病率になっているところもあるのだそうです。そして,経済制裁で薬が入らないことから(このこと自体が犯罪的だと思いますが),この子どもたちの多くはなすすべなく死んでいくのです。私が視察したときも,1時間半後にもどったらそのベッドはすでにあいていて,隣のベッドのお母さんか「あの子は亡くなった。」と告げられました。 湾岸戦争後にうまれた子どもたちなのに、湾岸戦争時代の武器で日々殺されていく理不尽。 しかし、アメリカは違う。罪なき子どもたちを次から次へとガンにさせておいて、さらにその子どもたちが自力で治療する機会も「経済制裁」の名で奪ってしまう。さらなる理不尽です。 「セイブ・イラクチルドレン・名古屋」の立ち上げ 私は、爆弾が明日にも降るかもしれない状況下での、イラクの子どもたちのはじける笑顔を見てきました。他方で、イラク中の病院にあふれている小児ガンの子どもたちの悲惨な姿をこの目で見,「この部屋の子たちは近々全員死ぬ。いったい、この子たちが何をしたというの」という母親の慟哭をこの耳で直接聞き、「ニュースよりも,写真よりも,薬を下さい。検査機器を下さい。必要な薬は○○〜○○です。」という医師の具体的な訴えを聞きました。 戦争というのは、病院で必死に命をつないでいる子どもはもちろん、今の今まで元気に遊んでいた子どもをも一瞬にして殺し去ってしまう行為です。この当たり前の事実を、一人でも多くの日本の人に伝えなければいけない,やれることをやらなければならない,と決心して、イラクチルドレンを立ち上げました。「伝えること」と「助けること」、これが二大テーマです。イラクの現状を伝え、必要な医療支援その他の支援を行っていきたいと考えています。 「セイブ・ザ・イラクチルドレン・広島」ほか 私と同じ思いで帰国した広島の大江厚子さんも、イラクチルドレン広島を立ち上げました(連絡先;0826−28−2629)。 広島は、原爆被災地であるため、劣化ウラン弾に対する感受性がひときわ強いようです。イラクチルドレン名古屋の姉妹格にあたりますので、広島のお知り合いなどおられたら紹介してあげて下さい。 また、東京などでも、現在、イラクチルドレン東京の立ち上げが計画されています。日本中にイラクチルドレンの輪ができたら、どんなにうれしいことでしょう。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。 2003年2月脱稿、小野万里子 |
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